「あのあとね、伊佐地センセにも言われて壇ノ浦の間にもう一度行ってみたんだけど、もう何ともないみたいだったよ。幸徳路さん……だっけ?冬の洞の守護者をしてるって人。その人の……占?っていうヤツ?だっけ…?にも、特に何も出てなかったって言ってたし」
「そうか……すまなかった、武藤。色々と面倒をかけたみたいで」
「そんなことないよ!!」



喫茶店『ドッグ・タグ』の一席。
珈琲とフレンチトーストを卓上の共に、千馗は同僚であるいちると向き合っていた。



先日、冬の洞で千馗が行方不明になるという事件が起こった。
燈治と弥紀、そして八汎学院を始めとする千馗の仲間たちの尽力のおかげで、千馗は無事に戻る事が出来たのだが。
その時、千馗は空間の歪みに囚われていたせいで意識を失っていた。
そのため、同じく事情を知った伊佐地の知らせで千馗の元へ駆け付けたいちるに、その時の状況の説明と事件後の経過を聞いていたのだ。



「でも……本当に良かった」
「武藤……?」
「伊佐地センセから事情を聞いた時……あたし、すっごく慌てちゃって、さ。ホント、無我夢中で洞まで行って。途中で壇クンたちと合流出来たから、少し落ち着けて……皆が背を押してくれたから、千馗クンへ声を届ける事が出来た」



一旦言葉を止め、いちるは千馗に顔を向ける。



「キミを……呼び戻せて、良かった」



洞に戻れた時、いちるに思い切り飛び付かれたのを思い出す。
泣き笑いのような顔で、「良かった」と。



「………本当に、世話をかけた……ありがとう、武藤」



千馗もまた、ひどく眦を下げた表情で、いちるに笑ってみせた。













悔恨と孤独。
哀しみと寂しさ。
降り積もった”負の連鎖”は、常人とは違う《瞳》を持った自分に訴えた。



「………」



グローブと手甲の下、常時においては隠されている《刻印》に触れる。
今はもう、この手にあの時封じた”思念”は残っていない。
埋れていた”想い”は願いを訊き遂げられ、浄化された。


分かっている。
分かっては、いるのだが―――




「右手が、痛むのか」




不意に聞こえた声音に、千馗は振り返る


「……雉明」
「もう、あの”思念”は、きみを縛ってはいないはずだ」
「ああ……分かっている」



いちると会う前に、白にも話を聞いた。
彼がどういう手段を使ったのかは定かではないが、自分の囚われていた異空間に助けに来てくれた事を。



日の暮れ始めた、新宿駅前広場。
人の波間を縫うように寄って来た零は、千馗の正面に立つと、その右手を取った。



「……ありがとう、な」
「何が、だ?」
「オレが寝こけてる時、白を護ろうとしてくれたんだろ。それに……オレの事も、案じてくれた」


時間が経つにつれ徐々に不安定になっていく空間の歪みを、彼は白と二人で支えてくれたのだと言う。



「いや……結果的に、おれも白も、きみに助けられた。礼を言うのは、おれの方だ。……ありがとう、七代」
「……って言っても、ほとんど無意識だったしな」
「あの状況であんな事が出来るのは、きみぐらいなものだろう」





あの時、千馗は渦巻く”負の念”に同調し、意識を失っていた。
にも関わらず、零と白の危機に一時的とはいえ覚醒し、原因とも言える”思念”を《隠者の刻印》を媒介に、回収してみせた。



「……”想い”、か……」



今は零に触れられている右手を、千馗は見る。





形あるモノはいずれ風化する。
眼に見えなくなったソレは”記憶”となって残り、だがその”記憶”すら、刻と共に薄れていってしまう。
かつては、確かにそこに在ったはずなのに―――。



もう、この右手に残っているモノはない。
けれど、あの時。
冷えた水底の下。
千馗は確かにその”声”を聞き、その”想い”に触れたのだ。




「―――忘れないよ。オレも人間だから、全ての記憶をそのまま留めておくのは難しいけれど」




せめて、己の”記憶”が続く限り。
確かに、そこに在ったのだと―――。




「……きみらしいな、七代。だからこそ……彼らはきみを、呼んだんだろう」



瞼を伏せ、哀愁と共に微笑む千馗に、零も似たような表情をして見せた。



今は何も宿していない筈の千馗の右手の《刻印》が、仄かに光を零したような気がした。




いの 尺




どうか忘れないでと、